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辞めた従業員が同業で独立した——競業避止義務は本当に使えるのか【後編】

 前編では、「退職する従業員にサインさせた誓約書があっても、裁判では無効と判断されることがある」という解説をいたしました。在職中は認められる競業避止義務が、退職後は原則として消滅し、これを制限するには会社側が改めて「根拠」を用意しなければならない——にもかかわらず、その根拠の中身が不合理であれば、結局は無効になってしまう、というのが前編の結論でした。
 では、裁判所が「これは有効だ」と判断する競業避止の合意とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。後編ではまず「退職後の競業避止義務の根拠は何か」という法律的な骨格を整理した上で、有効性を左右する6つの判断基準を一つずつ確認します。あわせて2024年に国が動き出した「競業避止義務の明確化」という最新の議論もご紹介します。

1.そもそも退職後の競業避止義務はどこから来るのか——就業規則だけでは足りない

 前編でも触れた通り、退職後の競業避止義務は「当然に発生するもの」ではなく、根拠が必要です。ではその根拠とは何でしょうか。
 実務的には、就業規則に競業避止条項を定めておくか、個別に誓約書を取る(あるいはその両方)という方法が一般的です。ただし、ここには重要な注意点があります。
 まず就業規則についてです。労働契約法7条は、合理的な内容の就業規則を周知していれば、その就業規則の内容が労働契約の内容になる、と定めています。退職後の競業避止条項が就業規則にあった場合、法的には「就業規則それ自体が退職後の元従業員を直接拘束する」のではなく、「在職中に成立した労働契約の内容として、退職後に競業避止義務を負う旨の合意が織り込まれていた」という構成で効力が説明されます。つまり、労働契約という「容れ物」を通じて初めて義務が発生しており、就業規則単体が退職後の元従業員を縛る独立した法規範として機能しているわけではありません。
 この点は、一般の実務解説ではしばしば省かれている部分ですが、重要な含意があります。もともと競業避止条項が就業規則に存在しなかった会社が、後から就業規則を変更してこの条項を新設した場合、それは既存従業員の労働条件を不利益に変更することになります。労働契約法9条は「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則の変更によって労働者の不利益に労働条件を変更することはできない」と定めており、就業規則の変更だけでは既存従業員に対して効力が及ばない可能性があります。
 次に、就業規則が周知されていなかった場合も問題です。就業規則が労働契約の内容になるためには「周知」が要件であり、「社内の見やすい場所に掲示する」「必要なときに確認できる状態に置く」といった実質的な周知がなければ、就業規則自体の効力が否定されます。
 これらのリスクを考えると、退職後の競業避止義務を確実に課したいのであれば、就業規則の規定に加えて——あるいはそれと並行して——入社時または退職時に個別の誓約書を取得することが不可欠です。個別の誓約書であれば就業規則の変更・周知という問題は生じませんし、契約当事者間の合意として明確な根拠になります。
 なお、誓約書を退職時にのみ取るという会社も見られますが、在職中に何の言及もなかった義務を退職の場面で初めて求めた場合、退職する場面においては従業員はそれを拒絶することによるデメリットが比較的小さく、提出に応じないことが十分に考えられます。同業・類似業種での独立や同業他社への転職を考えている場合などは尚更です。入社時の誓約書でまず根拠を作り、退職時にその時点の担当業務に即した内容で取り直すのが安全です。

2.有効性を分ける6つの判断基準

 根拠となる合意や規定がある場合でも、その内容が不合理であれば公序良俗違反(民法90条)として無効とされます。裁判例の蓄積や経済産業省が2000年に公開している「競業避止義務の基本的考え方」から整理されている判断要素は、おおむね次の6つです。これらは個別に「合格・不合格」を判定するものではなく、総合的に勘案されます。
①守るべき企業の正当な利益があるか
 最初の関門は、そもそも会社に「守る価値のある利益」が実在するかどうかです。不正競争防止法上の要件を満たす営業秘密はもちろん、それに準じる独自のノウハウ、あるいは会社が自らの投下資本によって組織的に開拓した顧客関係などが、これに該当するとされています。
 一方で、前編でも触れた通り、従業員が個人の能力と努力によって築いた人脈や取引関係については、会社側の「守るべき正当な利益」とは認められない傾向にあります。「営業成績の良い従業員が独立すると売上が落ちる」という事実だけでは、競業避止義務を正当化する理由にはならない、ということです。
②対象従業員の地位・職務
 同じ会社の従業員であっても、誰にどこまでの制限をかけられるかは一律ではありません。問題となるのは、その従業員が実際に①の「守るべき利益」にどれだけ深く関わっていたかという点です。
 会社の営業秘密に触れる立場になかった従業員に対して競業避止義務を課しても、その必要性自体が認められず無効と判断されるおそれがあります。「全従業員に一律で同じ誓約書を書かせる」という運用は、この観点から見直しが必要になることが多いでしょう。
③禁止される行為の範囲
 「競合する業務全般を禁止する」といった抽象的・包括的な定め方は、合理性が認められにくく、無効と判断される傾向があります。逆に、禁止する活動内容が具体的に絞り込まれ、それが会社の利益や本人の従前の業務内容と合理的に関連している場合は、有効と判断されやすくなります。
 例えば「自動車関連業」「建設関連業」のように、裾野が広い業界での競業を包括的に禁止するような規定は、憲法が保障する職業選択の自由が著しく制限されてしまうことになりかねず、裁判所がこれを有効と認めれば裁判所が憲法の保障する自由の制限を助長してしまいます(※憲法は本来国家権力と個人の関係を規律する法規範であるため、憲法が直接的に適用されるのではなく、憲法的な価値観を踏まえて「公序良俗(民法90条)違反」とされ、合意が無効となるという理論構成が採用されます。)。このため、禁止される競業の範囲には具体的な特定が必要になるのです。
④制限される期間の長さ
 競業避止義務を課す期間が短いほど、職業選択の自由への制約は小さく、有効と判断されやすくなります。肌感覚としては1年以内であれば有効性が認められやすく、2年を超えると無効リスクが高まるというイメージがありました。
 ただし、近年の裁判例ではこの感覚にも変化が見られます。2年間の制限であっても、会社側の利益の性質や退職する従業員の不利益の程度に照らして「長すぎる」と判断されたケースも出てきています。
⑤地域的な限定があるか
 事業の性質に照らして、対象地域に合理的な制限が設けられているかも考慮されます。これまでの傾向では、日本全国での禁止と特定の地域だけでの禁止とでは、前者は無効になりやすいです。しかし、特定されていれば有効になりやすいというわけでは必ずしもなく、事業内容との兼ね合いによることになります。
⑥代償措置が講じられているか
 実務上見落とされやすく、かつ近時重視される傾向にある要素がこちらです。競業を禁止する代わりに、会社が何らかの金銭的な手当(例えば退職金の上乗せ、在職中の特別な手当、高額な役職手当など)を講じているかどうかです。
 代償措置が存在しない、あるいは存在しても不十分である場合に無効と判断した裁判例も数多くあります。「従業員の将来の職業選択を制限しておきながら、会社側は何の対価も払っていない」という構図は、裁判所に有効性を主張するに当たって説得力を欠くポイントになりやすいといえます。もちろん、特別の代償措置がなくても有効と判断された事例もありますが、総合判断である以上、他の要素から競業避止義務の必要性が相対的に大きいことが必要となるでしょう。

3.競業避止合意に関する国の動き

 ここまで見てきた6要素は、いずれも長年の裁判例の積み重ねによって形成されてきたものであり、法律に明文で定められているわけではありません。そのため、実際にどこまでが許容されるのかが分かりにくく、経営者にとっても従業員にとっても、判断に迷う場面が少なくありませんでした。
 こうした状況を受けて、2024年4月、内閣府の規制改革推進会議「働き方・人への投資ワーキング・グループ」で、競業避止義務の明確化が議題として取り上げられました。厚生労働省が提出した資料では、学説・裁判例の到達点が整理されるとともに、今後の検討課題が示されています。
 この議論の背景には二つの問題意識があると考えられます。一つは「無効になり得る誓約書」がもたらす萎縮効果です。たとえ実際には無効と判断される可能性が高い誓約書であっても、サインさせられた従業員本人は「これがある以上、類似業種に転職や独立をしてはいけないのだろう」と思い込み諦めてしまうことがあります。法的には無効の可能性があっても、心理的な抑止力として機能してしまっている、という意味です。もう一つは、ジョブ型雇用への移行や専門性を生かした転職が増える中で、過度に広範な競業避止義務は労働者のキャリア形成や人材の適正な移動を阻害しかねないという見方もあります。
 実際、過去にも競業避止義務を課す場合には対象となる業種・職種・期間を明確にすること、退職時に書面で明示することなどを指針等で促進すべきだとする提言がなされてきた経過があります。2024年の規制改革推進会議での議論もこうした流れの延長線上にあると言えるでしょう。

4.経営者が今できること

ここまでの内容を踏まえ、中小企業の経営者が実務上できる対応を整理します。
【入社時から誓約書を整備し、退職時に取り直す】
 就業規則への記載だけに頼らず、入社時に個別の誓約書で根拠を作り、退職時にその時点の担当業務に即した内容で取り直すことが確実性を高める方法です。就業規則の新設・変更だけでは既存従業員に対し効力が及ばないおそれがあります。
【代償措置を具体的に明記する】
 「競業避止義務を課す代わりに退職金にいくら上乗せするか」「在職中の手当としていくら支給しているか」など、代償措置を講じていることをできる限り具体的に説明できる状態にするのが望ましいです。
【禁止範囲・期間を具体的に絞る】
 「競合業種への就職を一切禁止する」といった包括的な定め方ではなく、本人が実際に担当していた業務や接していた営業秘密の範囲に即して、対象を絞り込むことが重要です。期間についても、情報やノウハウの陳腐化のスピードなどを考慮して設定する必要があります。
【従業員の地位・職務に応じて内容を分ける】
 全従業員に同一の誓約書を一律に適用するのではなく、実際に営業秘密や重要な顧客情報に接する立場にある従業員と、そうでない従業員とで、課す制限の内容を分けることが望ましいといえます。
【定期的に見直す】
 裁判例の傾向は変化しています。かつて認められていた禁止期間が通用しなくなるなど、裁判所の考え方も時代の変化と共に変わっていきます。過去に作成した誓約書のひな形をそのまま使い続けることにはリスクが伴います。

おわりに

 「誓約書を取っているから安心」ではなく、「有効な誓約書を取れているか」「就業規則の規定だけで根拠として十分か」という問いが、競業避止をめぐるトラブル対応の出発点です。特に、代償措置の有無や禁止範囲の具体性、そして就業規則だけに頼らず個別合意を取るプロセスは、見落とされがちでありながら裁判所の判断を大きく左右するポイントです。
 もし現在お使いの誓約書や就業規則が何年も前に作成したひな形のままであれば、一度弁護士に再検討を依頼することをお勧めいたします。

 前回・今回の2回にわたり、従業員(労働者)を対象とした競業避止義務に関する記事をお送りいたしました。他方、会社の取締役などの「役員」については、在任中・退任後のいずれについても、従業員とは異なる法的な枠組みが適用されます。役員の競業避止義務については、またの機会に。

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