前回まで見てきた古代や江戸時代の交通ルールは、駅制、宿場、関所、川越といった制度を通じて人と物の流れを管理していたのに対し、明治以降になると、日本の交通をめぐる状況は大きく変わり始めます。
最初は馬車や人力車が街路の秩序を左右し、やがて自動車という新しい乗り物が現れ、その普及とともに、従来のルールでは対応しきれない場面が増えていきました。
近代以降の交通ルールは、新しい技術としての自動車にどう対応するかという課題と切り離せません。
明治・大正・昭和を通じて、日本の交通法制は、地域ごとの取締規則から全国統一の命令へ、さらに戦後は法律へと組み替えられていきます。今回は、その流れをたどりながら、現在の道路交通法がどのような歴史の上に成り立っているのかを見ていきます。
馬車・人力車から始まる近代交通 ――明治期の交通ルールの出発点
明治前半の道路交通は、まだ自動車の時代ではなく、人や物の移動を支えていたのは、主として馬車、人力車、荷車でした。
そのため、日本の近代交通法制も、まずはこれらを対象とする取締規則から始まります。東京府では、明治初年から馬車や人力車に関する規則が段階的に整備され、営業、料金、待機場所、車体、通行秩序などが定められていきました。
ここでの交通ルールは、現在の道路交通法のように独立した「交通安全法」というより、営業取締と都市秩序維持が一体となったものでした。どこで営業できるのか、どのような車体が許されるのか、どのように往来すべきかを定めることで、近代都市の雑踏の中に一定の秩序を作ろうとしていたのです。
通行方法との関係で重要なのは、左側通行の制度化です。
明治期には、東京で人力車が行き違う際に左に避けることが定められ、その後、警視庁の道路取締規則によって、諸車牛馬は車馬道の左側を通行することが明文化されました。もっとも、この段階では、現在のような「人は右、車は左」という形はまだ成立していません。明治期に制度化されたのは、主として車両側の左側通行でした。
自動車の登場と全国統一ルール ――大正から昭和初期
こうした交通ルールの枠組みに変化をもたらしたのが、自動車の登場です。
世界では、蒸気で走る車の試みが早くから存在し、電気自動車も19世紀にはすでに試作されていました。
その後、1886年にベンツのガソリン自動車が現れ、さらに1908年にはT型フォードが発売されて、自動車は一部の珍しい機械から量産可能な移動手段へと変わっていきます。
日本も、この流れを受けて、明治末には海外から自動車が持ち込まれ、国内でも試作が行われました。
ここで興味深いのは、日本で初期に開発された自動車には、蒸気自動車も含まれていることです。明治末には山羽式蒸気自動車が完成し、その後、国産ガソリン自動車も現れました。つまり、日本の道路に自動車が入り込んでくる過程は、最初から現在のような完成されたガソリン車だけの歴史ではなく、蒸気機関を含めた試行錯誤の延長線上にあったのです。
もっとも、この段階では自動車はまだ少数でした。そのため、最初の規制も全国法ではなく、大都市の警察規則として現れます。
1907年、警視庁は自動車取締規則を制定し、自動車の運転や構造に関する規制を定めました。これはまだ東京を中心とする局地的なルールでしたが、自動車が都市交通の中で無視できない存在になり始めていたことを示しています。
大正期に入ると、自動車は徐々に増加していきます。
輸入車の利用が進み、やがて国内でも組立や生産の体制が整い始めると、自動車は旅客・貨物・行政・軍事を支える実務的な輸送手段として存在感を強めていきました。
こうなると、東京やそれぞれの府県ごとの取締規則だけでは対応しきれません。
そこで制定されたのが、1919年の自動車取締令と、1920年の道路取締令です。
いずれも内務省令で、まだ法律ではありませんが、ここで初めて、日本の交通ルールは全国一律の命令体系として整えられました。
この時代の通行ルールで現代と大きく異なるのは、人も車も左側通行だったことです。現在では「人は右、車は左」が当然のように思われていますが、それが定着するのは戦後のことです。大正・昭和戦前期の段階では、人も車も左側を通るという考え方が全国的に採られていました。
戦後とモータリゼーション ――交通法制の変革
戦後になると、交通法制はさらに大きく変わります。1947年には、戦前の道路取締令や自動車取締令に代わって、道路交通取締法が制定されました。ここで交通規制は、命令中心の時代から、法律を基礎とする時代へと移り始めます。
しかし、それ以上に大きかったのは、自動車そのものの急増です。
戦後の経済成長とともに自動車は急速に普及し、物流や通勤、日常生活を支える不可欠な存在になっていきました。
その結果、交通事故も深刻な社会問題となり、「交通戦争」という言葉が使われるほどになります。自動車が増えれば、事故も渋滞も増える。そうなれば、交通ルールもまた、より明確で体系的でなければならなくなります。
この流れの中で、1949年改正によって、現在につながる「人は右、車は左」が採用されました。歩車道の分離が十分でない道路環境のもとでは、歩行者が車と向き合って進んだ方が安全だと考えられたためです。ここにも、交通ルールが固定不変のものではなく、道路の実情や事故防止の必要に応じて見直されてきたことが表れています。
道路交通法の成立 ――命令から法律へ
もっとも、道路交通取締法の下でも、自動車社会の急拡大には十分対応できませんでした。
交通の量も種類も増え、事故も深刻化する中で、より体系的で明確なルールが必要になります。加えて、戦後の憲法秩序の下では、国民の権利や自由に関わる重要な規制を広く命令に委ねることにも限界が意識されるようになりました。
道路交通取締法自体は法律であったものの、なお広範な事項が政令等に委ねられていたため、国民の権利や自由に関わる重要な規制は、より明確に法律で定めるべきではないかという問題意識です。
こうして1960年、道路交通取締法は廃止され、新たに道路交通法が制定されます。ここに、明治の馬車・人力車の取締規則に始まり、大正・昭和戦前の全国統一命令を経て、戦後は法律としての道路交通法へと到達する、日本の近代交通法制の大きな流れが完成します。
自動車が社会の中心的な交通手段となったため、その利用ルールもまた、「法律」という、全国的・体系的なものとして明確に定められなければならなくなり、交通ルールは、地域規則から全国命令へ、さらに法律へと変わっていったのです。この背景には、まさに自動車の普及そのものがありました。
江戸時代までの交通ルールが、宿場や関所を通じて人と物の流れを統制する仕組みだったとすれば、近代以降の交通ルールは、自動車という技術の普及に応答しながら、安全確保と円滑な通行を全国的に実現する制度へと変わっていったといえます。
おわりに ――技術が変われば、法も変わる
この連載では、古代の駅制から江戸の五街道、そして近代の道路交通法制まで、日本の交通ルールの歴史をたどってきました。
この歴史をたどると、交通ルールとは、単なる通り方の決まりではなく、その時代や社会の技術水準、権力構造、経済活動、そして人々の移動のあり方を映す制度であったことが分かります。
明治期には馬車や人力車が問題となり、自動車が現れると局地的な取締規則が生まれ、T型フォードに象徴される量産化の時代になると全国統一ルールが必要になり、さらにモータリゼーションの時代には法律としての道路交通法へと再編されました。交通ルールは、技術の変化に遅れながらも、それに応答する形で作り替えられてきたのです。
現在、自動運転や新しいモビリティが現実味を増していますが、新しい技術が現れれば、利便性が生まれる半面で危険も生じる、それに合わせて法も変わっていく、道路交通法の歴史は、そのことを非常に分かりやすく示しているといえるでしょう。
当事務所も、時代と法の移り変わりを常にフォローアップして、皆様に的確なサービスを提供できるよう研鑽を重ねてまいります。






