江戸時代というと、車も信号もないのどかな時代を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、実際の江戸は、徳川吉宗の治世であった享保期(18世紀前半)には人口100万人を超え、現在 の東京の人口密度を超えるほどの巨大都市でした。
この巨大都市に、参勤交代によって大名や家臣が集まり、全国から人と物が流れ込む以上、そこには当然、移動を支える仕組みと、それを管理するルールが必要になります。
五街道と宿駅伝馬制――江戸の交通を支えた仕組み
その中核にあったのが、江戸・日本橋を起点とする五街道です。
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五つの街道は、幕府直轄の主要交通路として整備され、一定間隔で宿駅が置かれました。
宿場には人馬の常備が義務づけられ、公用の旅人や荷物を宿場ごとに送り継ぐ宿駅伝馬制が運用されました。
こうした道中の事務は「道中奉行」が担っており、街道は単なる通路ではなく、幕府が管理する交通インフラだったのです。
江戸時代でも、前回みた時代と同様、現代のように「誰もが同じ条件で自由に使う道路」を前提ではありませんでした。
五街道の整備は、公用輸送の確保と統治の必要から始まりました。宿場は旅人に便宜を与える場所であると同時に、幕府の命令に基づいて人馬を供出する行政上の拠点でもあったのです。
近世の交通ルールの出発点には、まず「移動を幕府が制度的に管理する」という発想があったといえるでしょう。
関所と川越――移動はどのように統制されたのか
江戸時代を代表する交通法規の一つが、正徳2年(1712年)に道中奉行から出された「道中筋条目(道中諸法度)」です。
これは道中関係の法規を集成したもので、宿場側が旅人をぞんざいに扱ったり、不当に高い旅籠銭の徴収を禁じたりするほか、定めを超える人馬の徴発や助郷村(宿場の人馬が不足したときに、人や馬の提供を課された村)への過重な負担を禁じる等の内容が定められていました。
つまり、街道は放任された移動空間ではなく、宿場、周辺村落といった街道に関係する組織にも一定のルールを課した管理空間だったわけです。
また、江戸時代の交通管理は、道そのものの整備だけで完結していたわけではありません。
幕府は要衝に関所を設け、とくに東海道では箱根関所と新居関所が厳しい取締りで知られていました。
関所で重視されたのは、いわゆる「入鉄砲に出女」の監視です。
武器弾薬の持込み(入鉄砲)や、大名の妻子が江戸から脱出すること(出女)を防ぐことが、関所の重要な役割でした。
ここでも交通のルールは、単なる安全確保ではなく、治安・軍事・身分統制と深く結びついていました。
さらに、主要街道の利用は、川の渡り方とも密接に関係していました。
たとえば東海道では、大井川や酒匂川のような大河川に恒久的な橋が設けられず、川越人足などの仕組みによって渡河が行われました。
近世の交通管理とは、道を歩くことだけではなく、どこで止まり、どこで手続きを経て渡り、どこで統制を受けるかを含めた、移動全体の管理だったといえます。
事故が起きたとき――江戸時代の交通事故処罰
では、こうした社会で事故が起きた場合、幕府はどのように対処したのでしょうか。
江戸時代の代表的な裁判実務の基準となっていたのは、徳川吉宗のもとで編纂された「公事方御定書」です。
江戸時代の交通事故に対する処罰は、かなり重かったことが指摘されています。
例えば、渡船で沈没事故を起こして溺死者を出した場合や、牛馬の引懸け事故(人がひいている牛や馬が人にぶつかったり、踏みつけたりする等して死傷させる事故)のうち、死亡事故については死罪とされていたようです。
また、引懸け事故のうち、日常生活に支障が出るほどの怪我にとどまった場合は「遠島」(島流し)、そうでない場合でも「中追放」(追放刑のうち居住地・犯罪地のほか、全国の主要箇所への立入りを、原則生涯にわたって禁止する刑。「重追放」は立入り禁止に加え、田畑・家屋敷・家財全ての没収)といった重い処罰が科されていました。
さらに荷主や家主にも過料が科されていたようです。
このような処罰は、現代の感覚から見ると、かなり厳しいといえるでしょうが、公事方御定書以前は、同様の事例でも怪我の養生代として銀1枚を支払えば済んでいた例もあったとされています。
交通事故の厳罰化は、巨大都市となった江戸において、混雑する交通空間の秩序維持が重要課題だったことの表れといえるでしょう。
現代との違い――江戸の交通ルールは何を目的としていたのか
現代と比べると、この違いはさらによく見えてきます。
現在、自動車の運転によって人を死傷させた場合は、主として自動車運転処罰法によって処理され、過失運転致死傷には7年以下の拘禁刑または100万円以下の罰金が定められています。
また、行政上は点数制度があり、死亡事故には13点または20点の付加点数が課されます。現代は、刑事責任と行政処分を区別し、加害者本人の注意義務違反の内容や事故態様に応じて処理する仕組みを採っています。
これに対し、江戸時代の交通ルールは、移動の自由そのものを統治の一部として捉え、その秩序を乱した場合には重い制裁をもって臨む傾向がありました。
現代の交通法制が、個人の自由な移動を前提に安全確保のための規制を重ねる仕組みだとすれば、江戸時代の交通法制は、統治・治安・流通の管理を主眼とした制度だったという違いがあるといえそうです。
このように、江戸時代にも交通ルールはありましたがそれは現代の道路交通法のように「安全で円滑な通行」だけを中心目的とするものではなく、五街道、宿駅、関所、川越、そして重い事故処罰といった制度の全体が、人と物の流れを幕府の統治のもとに置くための仕組みとして機能していました。
次回は明治維新以降から道路交通法の制定に至るまでの歴史をお話しします。






