車も信号もない時代に、交通ルールはあったのか。
そう聞かれると、多くの人は「そんなものは近代になってからだろう」と感じるかもしれません。
しかし、人や物が動くところには、いつの時代にも「どの道を誰がどう使うのか」をめぐる決まりごとが存在してきました。
それは、ときに律令や法度といった形で明文化され、ときに地域の慣習やマナーとして、人々の行動を縛り、また守ってきたのです。
この連載では、日本の歴史をさかのぼりながら、「道」と「移動」をめぐるルールがどのように生まれ、変化してきたのかを見ていきます。
今回は、古代律令制から中世~戦国期、そして織田信長による関所廃止政策までを取り上げ、「交通ルールの原型」ともいえる仕組みを探ってみます。
古代律令国家の交通制度――駅路・駅制という公的インフラ
7~8世紀、日本は大宝律令・養老律令などに基づく律令国家体制を整えました。これらの律令法典には、官道や駅家(うまや)に関する規定が含まれており、後に「律令交通制度」と総称されます。中核となるのが「駅制(えきせい)」です。
駅制とは、都と諸国を結ぶ「駅路(えきろ)」と、その道に一定間隔で設置された「駅(えき、駅家)」から成る制度で、駅には駅馬(公用馬)と駅子(えきし)と呼ばれる従事者が配置され、公用の使者や文書の輸送にあたりました。
駅馬の頭数や駅家の配置は律令やその後の格式によって定められ、駅使(えきし)の持つ駅鈴(えきれい)を提示して利用する仕組みだったとされています。
また、国土は「五畿七道(ごきしちどう)」に区分され、東海道・東山道・北陸道など各「道」に沿って駅路が整備されました。
これらの駅路網は、中央と地方を結ぶ官道として、行政連絡・公的輸送を支える国家インフラでした。
ここで重要なのは、古代は「道」が誰にでも同じように開かれていたわけではないという点です。少なくとも、駅制それ自体は、公用の使者や文書輸送を支える制度であり、駅馬を自由に使える仕組みではありませんでした。古代の交通秩序は、まず国家の統治を支えるための制度として構想されていたのです。
現代の感覚でいえば、緊急車両や公用車専用のレーンを制度的に整えているようなものだったといえるでしょう。
中世の関所――検問+通行税という交通管理
時代が下って中世(鎌倉~室町)になると、「関所」が設置されるようになります。
関所は、道路や河川交通の要衝に設けられた施設で、通行人や荷物の検問(出入りの管理)と通行税(関銭)の徴収を行う場所でした。
関所の設置主体は一つではありません。
朝廷・武家政権・荘園領主・寺社勢力など、複数の権力が各自の利害に応じて関所を置き、通行人に関銭を課しました。
伊勢神宮への参詣道などでは、参宮者(「道者」)や物流に対して関銭を徴収することで、寺社や領主の重要な財源になっていたことが知られています。また、当初は交通上の警護費や施設維持費の負担という性格も持っていたとされます。
しかし、関所が林立すると弊害も大きくなります。
各勢力が競うように関銭を取り立て、地域によっては関所が高密度に設けられたために何度も課税され、旅人や商人の負担は増大しました。
商品を運ぶ場合、そのコストは最終的に価格に上乗せされますから、関所だらけの状況は物流コストの上昇と市場の停滞を招きます。
地域によっては関所が高密度に設けられ、旅人や商人の負担が重く、流通コスト上昇の一因となりました。
こうしてみると、中世の交通はすでに「制度として管理されていた」ことがわかります。誰がどのルートを通れるか、どの程度のコストで移動できるかは、関所を設置する権力側の政策に大きく左右されていました。関所は、治安維持と徴税、安全保証を一体化した交通管理装置だったのです。
織田信長の関所撤廃――旧来の交通秩序を壊す
この「関所だらけの交通」を変えた代表例が、戦国大名・織田信長です。信長は、楽市・楽座と並んで、支配下に収めた地域の関所を廃止し、通行の自由化を進めたことで知られています。
ただし、信長の楽市例は、桶狭間の戦いで信長軍に打ち取られた今川義元の息子・氏真が浅間大社の門前市を楽市としたことを参考にしたとの指摘もあります。
ではなぜ、信長の関所政策が「画期的」と評価し得るのでしょうか。理由は少なくとも三つ挙げられます。
第一に、物流と市場の自由化です。
中世の関所は、通行人だけでなく荷物に対しても関銭を課しており、そのコストは商品の価格に転嫁されていました。
街道ごとに関所が林立していれば、商品が移動するたびに「関所通行税」が積み上がり、市場間の流通は細りがちになります。
信長が関所を撤廃・制限したことは、この多重課税構造を解体し、人と物の移動コストを下げる施策でした。結果として、自らの城下町や領内市場に、より広い地域から人・物・金を呼び込むことが可能になります。
第二に、旧来の既得権の打破です。
信長が行ったとされる楽市・楽座令は、特定の商人グループに独占的な営業権を与える「座」の特権を廃止し、地子や諸役を免除することで、自由な市場取引を促すものでした。
関所撤廃は、その外側にある交通インフラを開放する施策です。城下町の内部では座の特権を廃し、外部では関所をなくすことで、閉ざされた経済圏を一気に開こうとしたわけです。関所・座・関銭という「通行と取引のボトルネック」を同時に壊した点に、信長の政策の特色があります。
第三に、軍事・戦略的な合理性です。
信長は、何度も大規模な合戦を行っていますが、そのたびに膨大な兵力と兵糧・武器・馬を短期間に移動させる必要がありました。
その際、関所が存在すれば、自軍の移動であっても手続や時間的ロス、場合によってはコストが発生します。領内の関所を撤廃しておけば、自らの支配圏内では人と物の流れを素早く制御でき、戦略機動にも有利です。
関所撤廃は、単なる商人保護策にとどまらず、兵員・兵站の移動を円滑化する軍事的側面の効果も持っていたとみることができます。
こうした点から見ると、信長の方針は、それまで治安と徴税の装置とみなされていた関所を意図的に壊すことで、広域交通の自由化と市場の統合を進めた点で画期的です。
多くの戦国大名にとって関所と関銭は重要な収入源でしたが、信長はそこから得られる短期的な収入よりも、関所をなくして人と物の流れを活性化させ、自らの経済圏を拡大する長期的なメリットを選んだといえるでしょう。
庶民の日常と「見えないルール」
ここまで見てきたのは、いわば「上からの交通制度」ですが、農民や町人の日常移動については、現代のように、「左側通行」「徐行」といった規制を網羅的に定めた法典はないようです。
しかし、生活の現場を想像すると、そこに全くルールがなかったとは考えにくいと思われます。川の渡し場では、舟の定員や荷物の量、乗り降りの順番について暗黙の決まりがあったはずですし、狭い橋や山道では、荷物の軽い方が道を譲る、年長者や女性・子どもを先に行かせるといった慣習も自然に生まれていたと考えられます。
現代でも、例えばエスカレーターの片側を空ける(実はメンテナンス上は好ましくないようですが)等、法律には書いていないマナーとされるものが数多くあります。人々が当然であると認識しているルールは、かえって文献に残されないため、庶民の日常における交通ルール・マナーが事細かに記録されたものはないようですが、古代から戦国期の庶民もまた、法制度には現れない「見えないルール」を共有しながら、日々の道を行き来していたと想像されます。
「ルールがなかった時代」ではない――江戸の交通戦争へ
古代律令国家の駅制は、律令法典とその施行細則に基づく「公的交通ルール」として、中央集権国家の統治と軍事・徴税を支えました。
中世の関所は、通行人・荷物の検問と関銭徴収を通じて、治安維持と財政確保、安全保証を兼ねた交通管理装置となりました。
そして戦国期には、こうした関所の弊害を認識した大名が関所制限に動き、その中でも織田信長は、領内の関所を撤廃することで、物流と市場の自由化を進めた代表例といえます。
一方で、庶民のレベルでは、法令に残らない慣習やマナーが、橋や渡し場、狭い道などでの「すれ違い方」や「順番の決め方」を形作っていたと考えられます。そう考えると、今も昔も、守るべき交通ルールがあることに変わりはなさそうです。
次回は、舞台を江戸時代に移します。
人口100万ともいわれる巨大都市・江戸と、五街道・宿場・水運が作り出した「交通戦争」の中で、幕府や町人たちはどのような交通ルールと罰則を作り上げていったのか。道中奉行の仕事や道中諸法度、江戸の人身事故とその処罰などを取り上げ、近世の交通秩序をみていきたいと思います。






